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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

UAE時代その3


私がアラブ首長国連邦(ドバイ)で仕事をした時の日記(3)です

赴任から1ヶ月半が経った。
連れ合いが(YY)が様子を見に来るという。

メールでのやりとりで、ドバイに来られる時間は決まった。私は、早速、連れの滞在中の予定表(YY在UAE時日程表)を作成した。
2007/3/14 23:15に関空を発って15日6:05にDubai空港に到着するという私が乗ってきた例の便だ。

私は早朝起きて、心待ちに空港に迎えに行きNawara Apartmentに迎え入れて部屋でYYに休憩してもらうのがとりあえずの計画だ。

飛行機の到着時刻になった。国際線だから、イミグレや、通関に時間が掛かっているであろうが、旅慣れた連れ合いのことだから、それほど心配してはいなかった。ところが、同機で降りてきたと思われる人たちの波が一旦収まってもなかなか出口から出てこない。

国際線の空港でもあるし馬鹿でかい空港だから、ひょっとして道に迷っているのではないかと、少しずつ心配になってきた。運転手のラスールに特徴を教えて一緒に探すように促したものの、待ち受け側で連れ合いを知るのは私だけである。あまり遠くはないが2つある出口を行き来しながら待った。

するとやっとの事で、出口から連れ合いが現れた。中国の福州で待ったときもそうだったが、顔を見るなり全身の力が抜けるような安堵感が湧いてきた。
今までの心配と顔を見た安心感で、ほっとしたその裏腹な言葉として、どうやら「遅かったじゃないか」と言ってしまったらしい。その言葉は、もっと歓迎してくれるだろうというねぎらいの言葉を期待した彼女の心を傷つけたようだ。

とても悪いことをしてしまったが、私の心は反対にとても高揚していた。
そこで、その日は丁度UAEのはな木(もく):イスラム圏では金曜日が休みなので、私が帰る3時半頃までは単独で、散歩なり、休憩をしていてもらった。(昼食も冷蔵庫にある物で適当に食べてもらうことにした)
15:30にアパートに帰り、ラスールを帰して、手始めにドバイクリーク沿いの、シェイク・サイード邸跡から昔の生活遺産の展示一角を案内した。その足で、バードバイ側にあるアパート近くのドバイ博物館に案内した。

ドバイ博物館内は、冷房も効いていて、快適なので、何度か足を運んだところだ。(大人3ディルハムだから安いものだ)
館内には1822年ドバイの街が発祥した模型が飾ってある。それと今日のドバイを見て、その進歩に驚く。

博物館は砦に囲まれた中庭からはいる。中庭の雰囲気も良いが、入口の対角部の地下への通路から博物館の展示コーナーへと入っていく。昔の人たちがどのように暮らしていたか、それぞれの職業(鋳掛けや、寺子屋、真珠屋、デーツ屋、布屋、漁業、船大工など)の蝋人形が本物らしく造られている。中に薬屋をのぞき込むアバヤ姿の婦人を全く本物と思い違いしてしまった。
ということは、19世紀初頭から、全く着るものは変わらなかったということか?

現代でも一部若者を除いて服装は替わらない。こういったことも、ドバイの経済発展と、文化の発展のギャップを感じるところである。

市内の主な場所の見学を終え、アパート近くのアスコット・ホテル内Yakitori Houseで夕食をとった。店のマスターは日本人で、多くの日本人観光客や、ビジネスマンでいつも満員の盛況ぶりだ。マスターは又、日本を離れ数十年と、中東当たりを転々としてきたという。
世の中にはいろんな人がいるものだと感心しながら、焼き魚や、寿司を食べた。

そのままアパートに帰っても仕方ないと、近くのクリークへとって返し、テクスタイル専門のオールド・スークを見学したりしながら、アブラが行き交うクリークサイドを散策し、クリークが見渡せるコーヒーショップ(鴨川にせり出す店のような)でしばし行き交うアブラや、飛び交うかも目を見て楽しみ。アパートに帰った。

翌日は金曜日である。どのコースが良いかと考え、UAE中を探索してきたが、欲張って、アル・アインからアブダビを通りドバイへ帰るコースを選んだ。

朝、6時に起き私は、朝飯と同時に、自炊の力を見てもらおうと、はじめてお弁当を作成した。
といっても、にぎりめしに一寸した炒め物のおかずなのだけれど、おにぎりにはしっかりと海苔を巻いた。勿論ラスールの分も作った。
7時半にラスールが迎えに来て、一路アル・アインに向かった。
途中で、道路脇にらくだの大群(そこはらくだレース場の近くだからレース用のらくだかも知れないが)が居たので、記念写真を撮った。
私はもう慣れていたけれど、砂漠にらくだは、日本にいては余り見られるシーンではなく、YYも喜んでらくだと共に、被写体となった。
アル・アインに着いて、休館のミュージアム周りや、アル・アインの町を車でまわっただけで、
ハフィート山に直接向かった。例の山肌が茶色くむき出しの山々を見て、YYは地質学上の講義をしてくれるが、いつも、「ふん、ふん」と聞くだけだ。

その日のハフィート山はことのほか風がきつかった。周りにこれと言って高い山があるわけでもないので、この風の強さはしょうがないかなと思いながら、一応オマーンの国(砂漠)を見たり、ドライブインのようなところを覗いたりはしたものの、記念撮影をして、そそくさと下山した。

山を下りて、例の緑化された公園で、持参した弁当を開いた。日本茶の自動販売機があるわけではないので、コーラやミネラルウォーターでおにぎりをほおばった。
なにやらラスールは海苔が苦手らしく(サウジの時のフィリピン人もそうだった)、米の飯も、インドはぱさぱさのカレー用のものしか食べられてないので、どうやら、私の作ったおにぎりは食べられなかったらしい。
腹が減っては気の毒と、どこかで食べられるものを買っておいでと、50ディルハムを渡し捜しにやらせた。
その間YYと二人で、流れるホットウォーターの人口小川に足をつけたり、木陰で休んだりして時間を潰した。

13:00にアル・アインを後にして、一路アブダビに向かった。
YYは暑さに参って疲れ切ったのか、アブダビに着くまで、車の中でこっくり、こっくりしていた。
もっとも、アル・アインからアブダビまでは何も見るべき物がないので、丁度良い休憩であった。

14:30にはアブダビの街に到着した。
外はかんかん照りなので出るわけにも行かず、車で、王宮周りや、市内の公園周りをドライブした。YYも七つ星のホテルを見てその壮大さに驚いていた。
そろそろ市民が活動を開始し始める16:00ころ海に突き出した砂州状のマリンモールに到着した。
マリンモールを一渉りウインドウショッピングした後、マリンモール内のレストランで夕食を採った。

20:00頃アブダビを発ったが、その頃からマリンモールが人一倍の賑わいを見せ始めた。
駐車場は一杯となり、友人のところに行っているラスールを電話で呼び出して、モールの前で待った。混雑を縫って、やがてラスールが現れた。
そこからは又一路ドバイに向かうドライブである。
21:00を越える、シェイク・サイード・ロードの混雑渋滞をYYに見せることによって、毎日の交通渋滞が大変なのだと言うことが分かってもらえたかな、と考えながら比較的早く21:30にはアパートに着いた。

翌日からは出勤だ。私の出勤したときはいつもKWIKのスタッフ連中は来ていない。
一度鉄骨工場はどんな物かをYYに見せるためにKWIKまで一緒に行くことにした。
毎朝6:00に出発する。その日はYYも早起きした。未だ明け切らぬジュメーラ・ロードを進むと、
その日は、モスクが綺麗にライトアップされていた。
金色のモスクを背景に感激するYYの記念撮影をして、いつもラジオ体操をするジュメーラ海岸に着いた。
そこからは、ブルジュ・アル・アラブやジュメーラビーチ・ホテルが目と鼻の先だ。
ブルジュ・アル・アラブの最上階には、ヘリポートも見えるし、横に張り出した、おそらく展望レストランであろうところも間近に見える。
あるブログでは、新婚旅行に大枚をはたいてそこに泊まって感激したことが書いてあったが、中にはいるだけでも何千円も取られるホテルには、入る気になれなかった。
最上階には、マイクロソフトの、ビルゲイツの専用チャーター部屋があるとか・・・。
そんなことより、打ち寄せる波の音をバックに綺麗な空気を胸一杯吸う方が気持ちが良かった。
1時間ほど、アラビア海(ペルシャ湾)を眺め、体操を済ませ、KWIKに向かった。

ジュメーラロードが切れるところから、シェイク・サイードロードの繋がるいつもの道を走った。
その頃やっと、左手前方に朝日が昇り始める。ジュメーラ・ロードからシェイク・サイードロードに掛かる右手にはポリスアカデミーがあり、早くから警官の訓練が行われていた。
まさにシェイク・サイードロードに掛かる立体交差を侵入すると、前方左にスキー・ドバイを併設した、エミレーツ・モールが見えてくる。
未だ夜光灯がともる中、2車線の侵入道路から6車線のシェイク・サイード・ロードへの侵入はいつもながら迫力がある。
右側通行のここでは、右車線は低速車用や、侵入道路である。
ラスールはこの侵入道路から一気に左の追い越し車線まで車を操縦する。
朝故か、検問がない故か、どの車も120km/hの制限速度を守って走っている車はない。

本線にはいると、後は流れに任せるだけだ。両側には、ジュメーラの街(高層ビル)が立ち並ぶ。
中には、王族の顔写真をビル側面のガラスに埋め込んだ建物まで見える。

ジュメーラの街を過ぎると、ITタウンを過ぎ、左手にジュメーラゴルフ場が見える。
私がよく通ったのは、その奥のモンゴメリーゴルフ場だ。
そんなことを説明しながら、ドバイ再南の街のモールが見えてくる。
名前も、イブン・バトゥータモールだ。
イブン=バットゥータの大旅行記で知られる、イスラム法学者の名前だ。
高校時代にか、イブン・バッタとも教えられた気がする。

七時過ぎ、ジュベール・アリにある、砂漠の中のKWIKに到着した。
砂漠とはどんなものかの一端をYYは感じたようだ。
KWIKでは私にGMの正面の部屋で、かなり広いスペースの執務室を提供してくれていた。

執務内を見せ。執務室からガラス張りで見える工場を見学させた。
30分くらい居てから、KWIKのスタッフ達がそろそろ出勤する前に、アル・コーツの工業地区にあるサブコンをまわるのにYYを付き合わせた。
各サブコンでは、進捗状況を聞くだけだからものの5分もあれば用は足りる。
サブコン3社をまわり、YYを近くのエミレーツモールに届け、昼食までYYと付き合ってから私はKWIKに帰り仕事をしている間中YYには一人で遊んでもらうことにした。

YYは大きなエミレーツモールを歩き回ったようだが、端に併設されているスキー・ドバイを見学に行ったり、スターバックスで時間を潰していたようだ。ここの室内スキー場(スキー・ドバイ)には日本の技術が生かされていると聞いた。
そういえば千葉の船橋に同じようなのがあったことを思い出したが、ここのは、ゲレンデが90度近く曲がっている特殊な形をしていた。
スキー好きのYYではあったが、貸し出しする靴やスキーが汚いので、実際には滑らなかったようだ。
仕事を終えるまでエミレーツモールで待っていた。ここドバイでは外気温との差は極端大きい。

石油がただみたいなものだからか、各モールなどはがんがんに冷やしている。
エミレーツモールで落ち合って、一旦アパートに帰ったが再びクリークの方に散歩に出かけた。
夕方涼しくなったとはいえ、外はまだまだ暑い。
クリーク沿いのケバブを売る店で簡単に食事を済ませたが、どうやら連れは食欲がないらしい。
外の暑さと、強行なドライブ、更にモール内の冷房の効き過ぎなどで体調を壊したらしい。
早めにアパートに帰って寝ることにしたが、だるさはだんだんつのるようだった。

翌日は、少し気になって、早めに帰ったら、どうやら連れは熱が引かないらしい。
夕方になるにつれて、しんどさは増すばかりのようだ。作ったおかゆもなかなか食べられない。
私は、日本大使館に問い合わせて、適当な病院を聞いた。
大使館員は、やや事務的ではあるが、親切に教えてくれた。
現地の人や、出稼ぎの人たちを相手にする病院よりは、高いけれど、アメリカンホスピタルはどうかという。
予約を取る方がよいが、緊急なら飛び込みでも見てくれるだろうという。

夜が明けてもつれの熱は下がらず、苦しそうであった。
翌日は休むことにして、アメリカンホスピタルを捜していくことにした。
2007/3/19
病院はアパートからそれほど遠くない東の町ワフィーシティーの中にあると聞いていたので、連れを伴って、ラスールと共にとにかくワフィーシティーまで行き、アメリカンホスピタルを探し当てた。

そこは、病院とも思えないほど立派な施設で、受付はまるでホテルのロビーのようであった。
とにかく入って、妻が熱を出して苦しがっている、見てもらえないかというと、予約はあるかと聞く。急な発熱で、予約はないというと、緊急受付の方にまわれと言って、事務担当者らしい人が付いていってくれた。
そこで訳を話すと、とにかくストレッチを持ってきて、連れは特別個室に連れて行かれた。
勿論私も通訳と言うほどではないが、苦しい連れに替わって病状の変化を説明した。

アイリーンという南アから来たという看護師がよく面倒を見てくれ、医師も丁寧に検査してくれた。(後で分かったが、滅法高いので、これって当たり前かなと)
それでも背に腹は代えられない。レントゲンを撮り、一通りの診察が終わって、疲れが原因だと言うことと、食べられてないと言うことで、点滴を施してくれた。その後で、医者は私と、連れに丁寧に病状を告げた。疲れと環境の変化で特別問題はないとのこと、ホットした。
点滴が終わる頃には、連れの顔には普通の赤みが戻っていた。

薬をもらって、会計をして帰ったが、2600ディルハム(8万円弱)も掛かってしまった。
緊急のベッド代、ということも大きな要素であったが、保険が利かないので、全額自己負担と言うことだからだ。(別途保険に入っていたので、日本で全額返済されたが、海外での医療費というのは馬鹿にならぬものだと心底よく分かった。)

アパートに帰ってからは、薬も効き、病状はすっかり元通りになるまでに回復した。

次の日(2007/3/20)は、連れも何とかアパート近辺で過ごすことが出来たようで、私がKWIKから帰ってから、夕方の街をクリークまで歩き、アブラに乗って対岸のデイラ地区の、ゴールドスークに出かけられる迄になった。
ゴールドスークは、世界中から観光客が集まる。ここの店は小さなものだが、それがアーケードの脇にぎっしりと並んでいる。アーケード自身はそれほど長いものではないが、その辺り一帯が金製品の店で埋め尽くされている。
連れは、慎ましやかに、ふっくらした、立体的な亀のペンダントに目がとまった。「今までこんなのが欲しかったの。」の一言に、私は店に入り値段交渉の上彼女にそれをプレゼンとした。

中東諸国では、奥さんへの愛情の証(男の甲斐性)は贈り物の金の重量で決まるという。
そんな連中をターゲットにしている店は、何とも巨大な首飾りが並んでいる。(映画のクレオパトラで、エリザベステーラーが首に掛けていたような代物ばかりだ)。
あんなのを常時していたら、肩こりで、それこそ大変だろうなとかえって同情してしまう(これってひがみかな?)

そんなこんなで、ウィンドウショッピングプラスアルファ的な散歩を終え、再びアブラに乗ってバードバイに帰った。
帰りのアブラは、陽も落ちていて、周りのオレンジ色の灯や、近くのモスクの青い灯が、水面に映し出され、何とも幻想的な風景だった。
連れは、ドバイに来て、このアブラに乗るのが一番好きだと言うほどで、自分一人の時も何度かデイラ地区を往復したという。

バードバイ地区には、有名なアラブ料理のバスタキア・レストランがある。
私は、連れがすっかり回復したと思って、夕食をそこですることにした。
レストランは中庭にテーブルをあちこちに配置し、一つ一つにキャンドルのような灯りがぼーっと照らしているというなかなかしゃれたところだった。
店は店、元々アラビック料理に旨い物はないが、連れの体調は未だ万全ではなかったらしく、食欲はなさそうだった。(後で聞くと、帰りの飛行機の中でも気分が多少悪くなったとのことだった)

考えてみれば、遠く離れた異国に一人で来て、その日のうちに強行軍の予定を組まれ、長距離のドライブや、灼熱の暑さ、さらに室内のふるえるように良く効いた冷房、そんな環境に急激に引き入れた結果が、このような結果を招いてしまったのだ。
申し訳ない気持ちがいっぱいなのと、体調不調を出来るだけ隠し、私の計画した予定に無理をして付いてきてくれた健気さに、大いに反省した。

翌日2007/3/21は、2週間毎の進捗状況をすりあわせる、駐在担当者3人と、フィリピン人を交えたミーティングがあり、シャルジャ地区のTSE担当者はジュベール・アリのKWIKに集まることになっている。
前にも書いたが、ジュベール・アリの保税工業地区には「弁当屋」という日本食(一応)があり、
ミーティング後そこで昼食を採るのが楽しみだった。

体調を壊し、あまり良い思い出にはならなかったようだが、三日後に連れは日本に帰国することになっていた。
航空券は、帰りの座席まで示してあったが、念のため、バードバイ地区のエミレーツ本社に行き予約の確認をすることにした。
予約は確認できたので、バードバイ地区のゴールドスークに再び足を運んだ。フィッシュマーケットや、フルーツマーケットなどが近くにあったが、内容も想像できるし、遠くまで歩くのは未だ疲れると言うことで、ゴールドスーク近辺の散歩にとどめた。

日も暮れてきたので、アブラに乗り、少し涼しくなった海面の風と、さざ波を感じながらアパート近くまで帰った。
慣れたアパート近くの(歩いていける)、アスコットホテル内のYakitori Houseで夕食を採ることにした。
多少高めだが、日本人の口に合うと言うことで、いつも大盛況だった。

アスコットホテルでは苦い経験が2度ある。
一度は、どうやらデジカメを落としたことだ。もう一度は携帯電話を落としてしまった。
ラスールを伴って、ドバイ警察まで行き、事情を説明したが、(スリ散られたといって)被害届を出せと、出された用紙はアラビア語のものだった。これでは分からないというと、中国語の用紙を出してくる。「私は日本人だ、これでは分からない」とすったもんだして、出された英語の用紙に、被害状況を書いてとにかくこれを警察に出したという証拠のスタンプをくれと言ったが、結局は何やかやといって、スタンプももらえなかった。
ここでも窓口の警察官(主にアラビア人ではない)と内側にいる位の高そうなアラビア人の警察官の違いを垣間見た。

盗難届や遺失物届けももらえないので、日本に帰ってからの手続きをすることも萎えてしまった。

ついに連れがドバイを去る日(2007/3/22)が来た。丁度木曜日で、半ドンであったため昼過ぎにアパートに帰り、ジュメーラ地区、遺産地区、アブラ、ゴールドスーク辺りを再び歩いた。
ドバイ空港から関空への便は、真夜中の2:50(実際は23日)と決まっている。
夜中の11時前にアパートで身支度を調え、ラスールに送られてドバイ空港へ向かった

とにかくチェックインしてしまうと、送る身はもうすることはない。何かあるかも知れぬと、空港内で暫く待っていたが、特に問題はないようなので、アパートに帰ることにした。

連れが来たらこれもやろう、あれもしようと計画していたが、おそらく、どの観光客も通常は経験できないアメリカンホスピタルの診療という行事が入ったため、後は慎重になってしまって、近場でお茶を濁すことになった。
あの、ブルジュ・アル・アラブで食事をとも考えては居たのだが・・・。

帰り着いた翌日には、連れは近くの公民館で、英語のレッスンがあるという。
全く通常の生活に戻ってしまうわけだ。

連れ合いが帰った後は、緊張が解けると同時に、気落ちもしたが、また、保税地区内ののAl Nasaでの検査、私の滞在延期手続きによる、エミレーツ航空へのブッキング変更など、仕事上の煩わしさ以外にも何やかやと日々は過ぎていった。

KWIKでの最終検査の回数もだんだんと増え、現場への搬出も行われるようになった矢先、リーダー格であるNTaのご母堂が亡くなったということで、緊急に帰国された。
その間も、検査や、出荷は、淡々と行われ、現場や、日本からの来訪者も増えた。

その時期は、ビザの関係で私も国外に一旦出なければならないときに当たっていた。
頭の中では色々考えたが、結局1泊の限定した時間しかないので、行き慣れたバーレーンに出ることにした。
バーレーンではサウジの時とは違う、バーレーン・インターナショナルホテルに泊まったが、数年前建築中だった、ツゥインタワービルは殆ど完成間近のようであった。
久しぶりにコリアンハウスで夕食を取り、ホテルに帰ってただ明日を待つばかりであった。
翌日は12:00バーレーン空港を発ち2時間少しで早ドバイ空港に舞い戻った。

結局は、NTaのご母堂もむなしくなられて、葬儀を済ませられたNTaは2週間ほどで、再びドバイに着任された。
その内、身体をこわして帰国されていたTOjさんの変わりにとSmi氏が着任された。
丁度その頃本社から見えていたKTa氏と、NTa氏と私とで、Smi氏を交えて、アラビアンランチェス(あの砂漠の中のコース)でゴルフをすることになった。

その日は丁度ラスール等インド人の祭典(なにやらインドから有名女優が来る)ということになっていた。前もってそれを聞いていたので、私はラスールの慰問をかねてその祭典の前売りを買った。高いところは勿体ないので(というのが、その祭典はシャルジャにある野外のフットボール球場でオープンで行われるらかった。

ゴルフが終わるやいなや、私はラスールの車に飛び乗って、一路シャルジャに向かった。
シャルジャにはいると、何処も車で一杯になっていた。運良く道路脇に車を置くスペースがありそこに止めて入口から入ろうとすると、安いチケット(50ディルハム)の入口は向こうだという。
200mも歩かされたところは、入口に殺到する人間をさばききれずに掛かりの人間がパニックになって、あげくは棒で観客をたたく始末だ。
こんな光景ははじめて見た。
民族性の違いか?等と考える余裕もなく、ラスールと私は何とか第一ゲートを突破した。

すると今度は、等級別に客席が決めてあるらしく、200ディルハムを払った連中は、グランドないし置かれた舞台を見やすい位置に案内されていた。
また、安い方のゲート前では早く入ろうとする人と、席の配分をしようとして一時ゲートを閉める人との小競り合いがあり、ラスールはその先頭に押し込まれ、悲鳴を上げる始末だった。
私は、見切りをつけ観覧席のウラの方にまわった。そこは閉まっていたが、アラビア人の整理人と問答しながら、何とか塀を乗り越えて中にはいることが出来た。
そしてラスールのところに戻ると、今にも圧死しそうで、水をくれと息も絶え絶えであった。
ちゃっかりと私だけ場内(それも高い席)に入り、場内で水を買い彼に渡して、内部で整理をしているガードに「彼は私のドライバーだ、是非入れてやってくれ」と頼み込んで、やっとラスールも場内に入ってきたときは相当にばてていたようだった。

インドの首振りダンスや、適当な漫談などがあったが、若干遠いし、何を言っているのか分からないこともあって、半分ほどして帰ることにした。
翌日ラスールが友人から聞いたところによると、それからが面白かったのだという。とはいえ、最終まで残り、又渋滞をくぐり抜け、バードバイのマンションに帰っていたら、夜中を遙かに過ぎていたことだろう、

その後は、ジュメーラ・ビーチの日光浴からだんだんとゴルフに集中するようになった。

仕事は遅れながらもぼちぼちと続けられていったが、遅れを取り戻そうと、サブコンを増やすことで、人数が足りなくなる。
テクニップからの雇われインド人が入室してきた。SMiの管轄下ということだが、居場所は私の居るKWIKで同室だ。
自分の専用の車がないので遅く来て、早く帰る。
当てにはしていなかったが、日々の検査活動で汗を垂らす必要はなくなった。
熊のような男で、名前もクマールといった。
彼は私を「ボス」と呼ぶので、「私は君のボスではない、ボスはMr. SMi」といい、それ以来私を「Big Brother」と呼ぶようになった。

ゴルフの回数が多くなったが、SMi氏はシングル級、又若いNTaさんは登り調子であるから、なかなか勝てる物ではないが、なかなか100を切ることも出来ない。一度、ハーフで50を切ったときにはお褒めの言葉を頂いた。
SMi氏は海外のゴルフ場の総距離は日本よりずっと長いので、仕方ないよと慰めてくれた。

しかしながら、暑いとはいえ、噴き出す汗も熱射ですぐ乾くし、ラウンドそのものは、仲間と言うこともあって、とても楽しかった。

なかなか仕事は収束しないまま私のアサインの期限は近づいた。
私のドライバーだけが異常にガソリンを使うとのクレームが、アブダビ事務所を預かるインド人(プラーンという)から本社に直接入った。私に確かめもせず、その上、本社の人間も私に聞くこともなくNTaを通じて調査を依頼してきたのを知り(NTa氏を通じて知った)。このことで、ここでの仕事続行に嫌気がさしたので、私は帰ることに決めた。

プラビーンはろくに調べも、私にヒアリング一つしない。砂漠のまっただ中の工場でしかも屋根がない露天の駐車場(後で、GMに聞いたら、何をするにも政府の許可が要るのだとのことで今申請中だという。)クーラーを掛けずに車内にいられるわけがない。又新しい工場だから、ドライバーの待ち合わせする特別な部屋もないという有様だ。

毎日50kmを往復、更に渋滞、そして屋根のない直射日光の当たる工場駐車場、仕事上で、ラス・アル・カイマ、シャルジャの何度もの往復、更にアブダビへの新規開拓工場の下見、日本からの要人の空港送迎がラスールに集中する等々と、私個人のための移動も含めると、十分に理解できる数字である旨私はNTaにレポートした。
NTaさんは、事情をよく理解してくれていて、私に同情的であり、又私が去ることは仕事上にも大きな痛手であると、本社に直訴してくれたが、私は引き続き協力する気が失せてしまった。

NTaさんの話で、その後、本社から私に謝罪の電話を入れるとのことだったが、何の電話も、直接のメールでの謝罪も、更にアブダビのプラビーンの謝罪もなかったから、私は、一度の延長期限を延ばすことには同意しなかった(日本で待つ連れも早く帰ってきて欲しいと言うこともあったが)

NTaさんとSMiさんが私の送別会を例のYakitori houseでやってくれ、最後のゴルフラウンドも付き合ってもらって、7月15日の夜、ラスールに送られ住み慣れたアパートを後にドバイ空港に向かった。いつも同じ便であるエミレーツ航空で、深夜ドバイを発った。
ラスールはずいぶん良くしてくれた。サウジのハッサン君といい、ドバイでのラスール君といい、私は海外のドライバーには比較的恵まれていた。

感謝の気持ちをラスールに渡すととても喜んでくれた。
今でも時々メール(といっても写真)をくれる。可愛いフィアンセとの写真を約束通り送ってくれた。
ドバイから関空への飛行機は、大圏コースをとり、中国、ロシア国境近くに沿ってタシケント近傍を通り、ゴビ砂漠の北方を通って、ウランバートル、北京上空から朝鮮半島の38度線を横切り、舞鶴当たりから南下して、関空に着いた。関空では1時間半の待ち合わせで、羽田空港に降り立った。

翌7月17日千代田化工の本社に立ちより、経過の報告と引き継ぎの報告を終えて私のドバイでの仕事は消化不良のまま終了した。

写真は後で追加することとし、一旦UAEでの生活を閉じます。(了)




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